頑張って気取って文章を書こうとして途中でテンションがよく分からなくなる悪い癖

 恋愛と妥協についての考察

人を愛するというのはとても難しいことだと私は思う。もっといえば自分を愛してくれる人を愛せる確率なんてごくごくわずかなのではないだろうか。そしてお互いにとってwin-winの変わらぬ愛などこの世に果たして存在するのか。そんな難しい色恋沙汰について私なりに考えてみたいと思う。

恋愛の話をする上で、少女漫画家である安野モヨコさんの作品のこのフレーズを取り上げたい。

本当の恋人はどこにいるの?
どうしてあたしはひとりなの?
こんなのじゃない
もっとカッコイイ人がいいの
あたしみたいな女の子
スキになんかならない
カッコイイ男の子
ハッピー・マニア安野モヨコ

この「あたし」が好きになりたいのは「あたし」なんかのことは好きにならない男の子である。これは実るはずのない思いであり、しかし自分を簡単に好きになるような男じゃこの「あたし」は納得できないのである。この気持ち、分かる人も多いのではないかと思う。しかしやはり難しい。

私は恋をする度にいつもこの人は運命の人だと思い、別れる度にいつもこの人は運命の人じゃなかったと思って生きてきた。「この人よりもっといい人がいるのではないか?」と思うこともあるし、「この人よりいい人なんていない!」と思ったり、愛するということは忙しい。そしてやっぱり難しい。

だから私は恋愛に正解なんて存在せず、あるのは妥協だけではないかと考えることにした。私だって贅沢を言えば、私みたいな女を好きになってくれる男の中で最も優れた人を選んで愛したい。しかしそれはきっと無理だ。人を愛するというのは個人の自由であり、自由と自由同士のぶつかりあいにお互いが100パーセント納得する決着をつけるのは難しい。自由であることをどちらか、あるいは両方がある程度諦めて、妥協点を見つけ出したその先にようやく永遠の愛が存在しうるのではないだろうか。

もちろん必ずしもそうであるとは言えないが、人を愛することと妥協するということは切っても切り離せない関係であるのではないかと仮定したい。答えはこれからの私の人生をかけて探していきたい。


倫理学概論のプレ答案でした。